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Orgueの調べ

.27 2009 音楽 comment(0) trackback(0)
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最近、またBachをずっと聴いている。

ついこの間までは、ゴルトベルク変奏曲やフランス組曲などクラヴィーア曲を多く聴いていたのだけど、この頃好きなのが、オルガン曲。

オルガンという楽器は、本当に驚異的だと思う。
まず、あの荘厳で畏怖さえ感じさせる外観。
ゴシック建築のように高く林立するパイプの群れ。
そして、ストップにより作り出される、無限とも思われる音色。
教会という場所に、その空間に、ああまでも同化した音というのは、他には鐘の音ぐらいしかないと思う。
音に波があり、奥行きがあり、深さがある。
音が目に見え、触れることができるかのような感覚がある。

実際に教会で聴いたときに、どうしたらいいかわからないほどの衝撃を感じたのを、今でもよく覚えている。

そして、また驚異的なのが、たった一人であの重厚で壮麗な音楽を演奏している、ということ。
カール・リヒターが演奏している映像などを見ると、その演奏の難易度の高さにまた驚かされる。
傍らに、ストップの操作の助けをする人はいるけれども、基本的に一人で、三段以上もある鍵盤と足鍵盤まで操るのだから、本当にすごい。
特にBachが活動していたころのバロック式のオルガンなんて、足鍵盤がかなり細くて、ほとんどつま先で弾いていて、それがまた奇妙でもあり、改めていかに大変かということを思う。


Bachのオルガン曲では、やはり「幻想曲とフーガ ト短調(BMW.542)」が一番好き。
前半部分の、激しく重厚な和音の連なり。
一つ一つの音の重なりが、これしかない、これ以外にはありえない、というような唯一無二のハーモニーだと思う。
どうしてこんな音が作り出せたのだろうか・・・
そして、フーガ部分の主題のメロディ。
この主題がまた本当に美しい。
綺麗だけれどもどこか哀しい、何かを思い出すような、感覚的な遥か昔のことを思うような、そんな気分にさせられる。
本当に、どうしてこんな音楽が生まれたのか、また生み出すことができたのか、と、聴くたびにいつも思う。


organというのは英語で、独語ではOrgel(オルゲル)、仏語ではorgue(オルグ)。
Moi dix Moisの「XANADU」の歌詞にも出て来ます。

 呪われた 心をオルグの 聖なる調べと共に 別れを告げ


ちなみに、日本では昔、オルガンのことを「風琴」と書いたらしい。
なかなか言いえて妙。







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クロスレースOP

.25 2009 服・小物 comment(0) trackback(0)
Moitieの今期もの。
クロスレースOP。

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はレースが白の方で、黒いものもあった。
この胸部分のクロスレースが、白だと十字が結構目立つ感じ。
白いレースに濃青のリボンクロス。

去年の今頃

.09 2009 教会 comment(2) trackback(0)
去年撮った写真を、いろいろ整理した。

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ウィーンには、本当に美しい教会がたくさんあった。
毎日毎日、教会を見るためにいろいろなところを歩いた。

1800年代に建てられた教会なんてかなり新しい方で、1700年代や1600年代の建築が街中にあって、中には1100年代なんてものさえあった。

街の中に、今もその教会が昔のまま存在していて、何百年も前と全く変わらぬ鐘の音と、祈りの声がある。


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中世と祈り

.02 2009 comment(0) trackback(0)
吉祥寺の古本屋さんで、素敵な本を買った。
その名も「中世 祈りの造形」。
山崎 脩さんという彫刻家の方が著した本で、1996年のものなので、そう古くはないのだけど、カラーの写真が数多く載っていて、とても面白い。
フランス・スペイン・ポルトガルの、主にロマネスクからゴシック期の教会・宗教的建築物について触れてあって、それらの美しく荘厳さ漂う写真をいろいろ見ることができる。

例えば、古い壁画、告解室、回廊の柱、更に柱頭部分の彫刻、ドームの天井、ステンドグラスに薔薇窓。
教会自体の美しい写真も多くある。

この時代の教会というものは、本当に美しい。
いくら見ていても、見飽きることのないような美があると思う。
そして、この本を読んでいてわかったことだけど、その理由の一つとして、建築の中に”祈り”があるのではないだろうか。
精神性、確固たる拠り所、つまり祈りの心、それがあったからこそ、あのようなものが生まれたのだろうな、と思う。


この著者の方の言葉で、心に響くものが多くあったので、幾つか載せさせていただきます。


「考えてみると過去において、”祈り”以外の造形があったろうか。
二十世紀頃に至りすべてから、つまり神々からも解放され、あたかも芸術のための芸術に我々はしばし酔った。
しかし、そこにはまだ完全には捨て切れない祈りなるものの存在は感じられた。」

「いわゆる現代のカルトに感動しないのは、その祈りの中に文化がないからだと言ってもいい。
否、何らかは在るではないかと言えるならば、そこにある造形表現はすべてに必然はなく、借り物であり、焼きなましにすぎない。
逆に言うならばその造形を見れば、祈りそのものの内容の深度までもいかに中途半端で、いい加減なものであるかも判明できる。
少なくとも真の祈りは真の造形を生んだ。
それだからこそ我々はそこに感動を覚えるのだ。」

「情報の過敏と流通の過剰は、単なる物珍しさと上っ面だけの変化を招き、真に心を打つ想像など稀
になってしまった。
むしろ逆に乏しい情報と緩慢な流通の中での方が、そこに在る人をしてすべてに忠実な真のリアリティを生んできたとも言える。
加えて余りの喧騒と満たされ過ぎた豊穣には怠惰がはびこり、意欲さえ喪失して、何物にも好奇心も抱かなくなってしまった。」


「古代は遠きに過ぎ、近世はカオスに目覚め、現代は喧騒でしかない。そんななかで中世には原寸大の人間の喜怒哀楽が、むしろ親しみを持って眺められる。」



他にも、教会の石造りの暗さと祈りの必然性など、なるほどと思える言葉が多くあった。
現代に対する見方は、全くもって同意、と思う。




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