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街の神秘と憂鬱

.22 2012 独り言 comment(0) trackback(0)
今日はだいぶ暖かさを感じる一日でした。
春が近づいて来ると、散歩が楽しい。
私は歩くのは全く苦にならないので、10kmくらいまでなら歩けるし、片道一時間ほどの道のりならば日常的に歩いてしまう。
歩きながら建物を見るのが好き。
特に、階段、柱や回廊、窓や入口の装飾や形。


そういう訳で、建物を描いた風景画が好き。
中でもジョルジォ・デ・キリコ。


今もやっているのか…?
ちょっとわからないのだけど、子供の頃よく見ていたTV番組で、「美の巨人たち」というのがあって。
確か、「世界不思議発見」のあとだったはず。
その二本立てを見るのが、土曜日の夜の楽しみだった、そんな小~中学生でしたw

両親の影響というのは大いにあったのだと思うのだけど、そういう絵画とか美術に関するものには幼いころから興味があって。

「美の巨人たち」は、たぶん第一回目から見てたと思う。
ピカソのゲルニカだったような。


で、その何回目かの特集で初めて見たのが、キリコの「街の神秘と憂鬱」。
今でも物凄い強い印象が残っている。
あの小林薫の、どことなく怖いナレーションと共に…

images (11)


不在の存在。
そんな感じ。
誰かいるけど誰もいない。
ここには誰もいない。

あの独特の色合いも衝撃的だった。
明るいけれど、どことなく漂う不安感。
不安だけど、なんとなく懐かしい。

そんな、”不安と共に甦る郷愁”みたいなものを子供心に感じて、その魅力に惹きこまれたのでした。

子供って意外と色々なことを繊細に感じたり考えたりしているものなのよね…とか思ったり。
今思い出してみると、だけど。

chirico_Piazza_01_650_convert_20120222135457.jpg


余談なのだけど、B-T今井さんのブログで、「街の神秘と憂鬱」について触れられていたことがあって。
そのときに、サティやジョン・ケージ、武満徹、更にちょっと変わったアンビエントや現代音楽の類、にも触れていて、その二つの共通点みたいなことを書いてらして。

そういった類の音楽を聴いたときに感じるものが、例えばキリコの絵を見たときに感じるものと似通っている、というような内容だったと思う。
不安感の中の安心感。ふいの懐かしさ。空虚。虚無の存在。みたいなもの。

その記事を読んだとき、自分が感じていたことと余りにも同質だったので、とても吃驚して。
と同時に、この人の感覚はきっと本物だ、と思ったし、だからあのような音の世界を作り上げることが出来るのだなとも思って何だか嬉しかった。

今井さんがお勧めしていた、諸星大二郎の漫画作品も読んでみたい。
「夢見る機械」とか「不安の立像」とか、題名だけでも素敵。








前の記事に拍手下さった方、ありがとうございました♪
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聖地話

.08 2012 独り言 comment(0) trackback(0)
この間、初めて奈良に行きました。
奈良は、自分の中でとても特別なイメージのある土地で…
やはり古来からの歴史の積もる地、日本の成り立ちが残る場所、ということで憧れもありつつ。
今回は珍しく同行してくれる人が居ました。
一人で行くのなら飛鳥あたりの遺跡と古墳を巡り、斑鳩の地で聖徳太子に思いを馳せる…wといきたいところだったけれど、半日しか時間もなかったのでとりあえず奈良公園周辺の修学旅行コースを歩きまわって来ました。


興福寺の五重の塔。

IMG_3334_convert_20120208151518.jpg




私の希望で、国宝館へ。
阿修羅像をひと目見てみたかったので。

あの像が735年製造とは…
流麗で端正、本当に優雅で美しい。
存在感が違う。
その他の仏像や八人衆も像もとても綺麗でした。
しかし、もう1300年も前に美の感覚とはあそこまで研ぎ澄まされていたのかと。


大仏殿。

IMG_8239_convert_20120208151747.jpg




大仏は、うわ大きいな、という感じでそのままの感想なんだけど、大仏殿は良いなと思った。
どことなく西洋の聖堂を思わせる造り。
石の床、高い天井、光の余り入らない小さめの窓、薄暗い空間、などの要素がそんな感じを匂わせていたのかもしれない。



春日大社。

IMG_0428_convert_20120208151451.jpg



とても良い森でした。
古来からの信仰を感じる静謐さ漂う山。
下鴨神社の糺の森もとても雰囲気があって好きなのだけど、やはり神社の森には独特の、一種の怖さ、畏れ多さを感じる。



そういえば、お正月に比叡山に行ってきました。
延暦寺。
ここも本当に行ってみたかった土地で。
物凄かったのが根本中堂。
異質なるものの存在…
簡単に言うと、危ない場所だった。
1200年もの間途絶えたことのない「不滅の法灯」といい…
入った場所よりもかなり下がった位置にある本尊の土間、あの暗闇。
闇には、良しにつけ悪しきにつけ、とかく尋常じゃない引力がある。
そんなことを感じました。
もう一度行ってみたい、とても気になる場所。



観光地って難しいと思う。
その地が素晴らしい場所であるが為に人気があり、口コミもあり、人が人を呼んで名所となるわけだけども。
そうして大衆化してしまうと本来のその魅力自体が失われてしまうことも無きにしも非ず。

特に元来”聖地”であった場所に関しては、それが顕著なのではないかなと。
聖地には幾つか必要不可欠な要素があると思う。
俗に言う「パワースポット」のパワーに当たるもの、それを造り出しているのは一体なんなのか。

私は日本人なら全く普通な、宗教に対してかなり寛容な人間だから(このブログにも正にそれが表れている気がするw)、だから神を信じるかとか信仰のどうこうたる、そういうものには余り興味を持てないのだけれど…
例えば「聖なる」とか「神」とか、そういう意識を持たせるに至る、その根源とは一体なんなのだろうということにはとても興味があって。
またこれについて語り始めると物凄く長い記事になりそうなのだけどw

やはり、人がそういう「この世のものではないもの」の存在を感じる瞬間、というのが絶対あると思う。
それは、その醸し出す雰囲気であったりするのではないか。

聴覚的なもの。
独特の雰囲気を造り出す静けさ、ある種の音。人の声音。
視覚的なもの。
暗さや闇。または光線。光の量や方向。
色。極度に色味を抑えてあったり、年数を帯びた石や木材、金属の色。もしくは極彩色。
嗅覚的なもの。
お香の薫りはわかりやすいけれど、建物に篭るその他の匂いなども。
年月を経てきたものの匂い。

あとはそれ以外の感覚。
これは説明しづらいけれど…
例えば、懐かしさ、郷愁の感覚とか。
さっきも出したけど、畏れ、畏怖の感覚とか。
でもそれらも、突き詰めれば何かしらの雰囲気に由来しているものなのかも。

などなどの要素が相まって、神々しさを演出するに至っているのではないかなと。
勿論、伝説や歴史も必要なのだけど。
というかそもそもそれが無かったら聖地にならないしな。
しかし雰囲気無くしては…、歴史だけでは、その場所が「何もない」状態になってしまうような気がする。

凄く感覚的な問題なのかもしれないけれど…


何が言いたかったかって、人が余りにも大挙して押し寄せることによって、本来の持ち味であった以上の”雰囲気”つまり”神々しさ”が失われてしまい、ただの場所になってしまうことがあるんじゃないかな、というそれだけ。

現実に、色々な観光名所である神社仏閣に行ってみたときに、あ、ここには何もない、と感じることがあったりして。
逆にマイナーな神社や山岳信仰の残る山で、うわ危ないなここなんかいる、と思うこともあるし。
そういうものに出会うとやはりどきどきする。

その感じは他ではなかなか味わえない。





またも久々な記事でしたが、異常に長くなりました…
しかもどこかの観光業界の回し者かっていうような内容w

教会(カトリックに限るけど)も好きだし、神社も好きだしお寺も好き。
イスラム系の寺院にも行ってみたいな…


Like, of the flow of a river

.25 2011 独り言 comment(0) trackback(0)
特筆するほどのことも無く過ぎていく日々。
生きるにはお金が必要です…
お金と愛とか天秤にかけるなんて全く変な話だと思う。
愛があるからこそお金が要るんじゃない!w
本当にそう思う。

人生に於いてどこまで悪足掻き出来るのか知らないけれども、諸々の無謀が可能な内はとりあえずひたすらじたばたしてようと思う。
何かもうそれしか方法が無い気がする。
そしていつか、ああもうこれ以上は無理だなーとなったその時には出家しようかと思いますw
神道もキリスト教も捨て難いのだけど、人の世の常を悟り、研ぎ澄まされた精神的境地を望むのだったらやはり仏教だなと。
涅槃寂静。素晴らしいところであろう。

…ということを結構真剣に考えているのだけど、まぁそんな時間があるのならもっと今のうちに生産的なことをしておいた方が絶対後悔しないで済むのだろうね。






川が好き。
海も良いけれど、川の流れのあの感じ…、良いなと思う。
海には海辺があるけれど、川には川岸があって、必ずこちら側とあちら側がある。
川を渡らないとあちら側には行けない。
明確に分かたれた境界線。
そこから三途の川、彼岸と此岸の思想などが生まれたのだろうと思う。
川はある種の結界の役割も果たしているということ。
まぁそれは川に限らず、水という物質全体に言えることかもしれない。
海は国と国、大陸と大陸を隔てている。
濠は城郭をぐるっと取り囲んでいる。
古代の豪族の墓の周囲にも二重、三重と濠が造られている。
水によって張られた緊張感、容易に足を踏み入れることを不可能とさせる感覚。
それは本能的なものなのか。

そう、川が好きなのは、その”境界”のイメージがよりわかりやすく表されているからかもしれない。
川の流れには必ず線が生まれる。
水の描く境界線。
そこはかとない緊張感を孕んで流れていく。
とどまることなく流れる。それは時間とも類似するのではないか。
時間とは川のようなものなのだろうか。


最上川も信濃川も鴨川も好き。
住む土地にはいつも美しい川がある。
そういえば古代文明は大河沿いに育っていったと習った。
人類の母なる川。

長江とか黄河の最上流の方へ行ってみたい。


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前記事に拍手下さった方、ありがとうございました!

Duet

.25 2011 独り言 comment(0) trackback(0)
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以前の記事に拍手下さった方、ありがとうございました!!

続・透明感

.02 2011 独り言 comment(0) trackback(0)
ここのところ、ずっと想っている”透明感”
人間でも、そういう透明な人がいると感じている。
透明であるから存在感が希薄なのかというと、そうではなくてだからこその唯一無二の絶対の世界に生きる人達。


まず真っ先に思い浮かぶのが、山口小夜子さん。
彼女の2002年頃のインタビューを見ると、出てくるキーワードはやはり透明感。
エネルギーの原動力は?と訊かれて、おいしいお水を飲む事、と答えている。
「人間の身体の70%はお水でできているでしょ?だからおいしいお水を飲むと元気になる」と。
そして大切なものとして、水晶の玉を取り出す小夜子さん。
「何でこれがいいと思うかというとね、濁りが全くないでしょ?」
「心とかは私もすぐ濁りそうになってしまうけれど、この濁りのない透明なものを見ていると、私の心まで浄化されるような気がするの」
彼女が求めているものと同化するかのように、水のように水晶のように純粋な透明感を持った人。
そしてまた、「自分というものを無くす、何か意図的なことを排除する、それが一番本質に触れることなのではないかと思う」と語っている。
この言葉は深い。
自分、自分、オリジナリティ、と繰り返され強要され、何が自分だったのかもわからなくなるような今の世の中で、この言葉は深く沁み入る。

彼女の透明さの謎を解く鍵にもなっているような気がする。



他にも透明な人というと、今すぐに思い浮かぶのは大野一雄さん、ピナ・バウシュ、DEAD CAN DANCEのリサ・ジェラルド…
まだまだいると思う。

でも今ふと思ったけど、そもそも”透明感”って何なのかしら…?
語句自体もリピートしすぎてよくわからなくなってきた…


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